「そっちへ逃げたぞ! あの交差点の先だぁ!!」
薄暮がやってきて、やがてほんのりと青い夜の闇が街並みを包んだ頃、あちこちから怒声のような叫びが聞こえ始めた。それも一人や二人ではない。おそらく十人弱はいるだろう。
その声の主たちは、若い男性もいれば女性もいる。また、年配者も混ざっている。
それはどう見たって、一般の人々であった。
その声の主たちにに問い掛けるように、一人の濃紺色の制服男性が駆け付けた。
「お待たせして申し訳ありません。ところで一つ確認いたしますが、本当に『未確認生物』だったのですか?」
それは若い警察官。おそらく、この近辺の交番勤務の駐在員であろう。
「ああ、間違いない! でかい頭に……黒っぽい皮膚。あんなのは人間じゃねぇ。未確認生物だ!!」
そこに居た誰もが、そう答えた。
「わかりました。至急所轄を通して、県警本部の対策係に報告します。では…まず、未確認生物に襲われた方はどなたですか?」
警官の問いに、皆が皆……顔を見合わせる。
「襲われたっていうのは、その未確認生物から攻撃をされた……。って意味かいな?」
「はい。もちろんそうですが、襲われたのはどなたでしょう?」
再び、皆が皆…顔を見合わせる。
「そういった意味では、襲われたヤツはいねぇーんだけど。」
「最初に叫んだのは誰だっけ?」
その問いに「俺だよ!」と答えたのは、ねじり鉢巻きの年配の男性。
「俺はそこの角で青果店をやってるんだけど、いきなり未確認生物が現れたかと思ったら、店のトマトとキュウリを1~2本ずつ、盗んでいきやがったんだ!」
「トマトとキュウリ。それだけ……ですか?」
「それだけって、それだって犯罪だろぉ! こちとら生活が懸かっているんだ! 早く、とっ捕まえてくれよぉ!」
年配男性は顔を紅潮させ、頭から湯気でも出しそうな勢いで、そう怒鳴り散らした。
「は……はい、わかりました。他に被害に遭われた方は……?」
警察官の再度の質問に、三度顔を見合わせた人々。
「いや、他には誰もいねぇーんじゃないかな? その青果店の親父の叫び声で、逃げていく黒っぽい影を見ただけで。」
一人がそう言うと、そこに居た全ての人たちも、ウンウン!と頷いている。
そんな皆の言葉に、一人ポカンと固まってしまった警察官。
「一応報告はしてみますが、おそらく後日改めて捜査されるんじゃないかと思います。」
とは言ってみたが、その表情にはもはや緊張感の欠片も無かった。
「くそったれ!! レバレッジ10倍が仇になったぜ!!」
ここは丘福市南区小間にある、こじんまりした二階建ての一軒家。
その家の一室で、ディスプレイを二つ並べたパソコンを凝視している一人の若い男。彼の名は、堂本大輔。
わなわなと震えるその腕でキーボードを掴み上げると、高々と振り上げ床に叩きつけた。
「500万だぞ! また一気に500万…消えちまった!!」
パソコンデスクを蹴っ飛ばし、本棚にある投資の専門書を床に撒き散らすと、今度は廊下へ向って声を荒げた。
彼…堂本大輔は、現在28歳。自称ネット投資家……と言えば聞こえはいいが、現実には殆ど稼ぎは無く、同棲させてもらっている女性から金銭をせびり、それを投資に当てている。
「紅々愛(ここあ)~っ!! 聞こえるか、紅々愛~~っ!! 今すぐコーヒーを持って来ぉーい!!」
その怒声にパタパタと反応する足音。
すると1~2分もしないうちに、一人の幼い少女がマグカップを両手で大事そうに抱え、部屋へ入って来た。
大輔は少女が持ってきたマグカップを受け取ると、その中身を口に含む。
ブゥゥゥゥッ!!
「苦ぇぇぇっ!!」
そう叫びながら、含んだコーヒーを全て噴き出す大輔。と同時に、手にしていたマグカップを少女に叩きつけた。
少女の全身がずぶ濡れになり、しかも湯気が濛々と立ち昇っている。
それでも少女は熱がりもせず、ただジッと立って耐えている。
「紅々愛、なんだぁ…このコーヒーは!? くそ苦ぇぇじゃねぇーか! 砂糖を入れてねぇーのか!?」
大輔はそう怒鳴ると、右手でその少女……紅々愛の頬を思いっきり引っ叩いた。
紅々愛の小さな身体が木の葉のように舞い上がり、そのまま本棚に叩きつけられる。
それでも紅々愛は悲鳴すら上げず、ただ黙って涙を零した。
「ご……ごめんなさい。でも…砂糖はもう無くなって……。」
身体同様、か細い小さな声で、賢明に弁解する紅々愛。
「だから俺に苦いコーヒーを飲めってかぁ? 俺が苦いの嫌いなの、知ってるんだろぉ? 嫌がらせかぁ~っ!?」
大輔はそう言って紅々愛の胸ぐらを掴み上げると、そのまま高く吊り上げる。
「今すぐコンビニ行って、砂糖を買って来い。そしてコーヒーを作り直して来い。わかったな?」
歯を剥きだして鬼のような形相で睨みつけると、紅々愛の小さな身体を廊下へ放り投げた。
まるでゴムマリのように跳ね上がる紅々愛の身体。
それでも、そこで痛がって蹲りでもすれば、大輔が蹴りつけてくるのは身をもって知っている。
泣きもせず黙って立ち上がると、よろめきながらもトボトボと歩き始める。
そして、玄関口のすぐ傍にあるキッチンへ入ると、そこには仕事から帰宅したばかりの母……莉子(りこ)が、黙ってテーブルに腰かけていた。
「お母さん……。砂糖を買ってくるから、お金をください。」
紅々愛は、自分自身の感情を偽るように目を細めて微笑むと、ゆっくりと小さな手を差し出した。
莉子は、そんな紅々愛の顔すらも見ず、何も言わずに財布から千円札を抜き出すと、放り投げる様に紅々愛に手渡した。
お金を手にした紅々愛は小さくお辞儀をすると、静かにキッチンを後にし、買い物へ出かけて行った。
コンビニで砂糖を一袋買い、再び青黒い景色の中を戻る紅々愛。すると……、
「あっ! 紅々愛ちゃーん!?」
そう声を掛けて来たのは、紅々愛よりも少し年上に見える少女が三人。
「こんな時間にお買い物~っ? アタシたちは塾の帰りなんだけど、よかったら…一緒に帰らない~っ?」
その内の一人、栗色のウェーブの掛かった長い髪。パッチリした目。まるで少女マンガのヒロインのような美少女が、にこやかな笑顔で問いかけてきた。
そんな三人の姿を見て、紅々愛の顔は更に暗くなる。
「ん!? 紅々愛ちゃん…『親友』のアタシが話しているのに、返事をしてくれないのーぉ?」
その美少女は、プクーッと頬を膨らませて紅々愛に歩み寄ると、彼女の肩を軽く叩くように押し付けた。
「ほら、愛梨(あいり)がそう言ってんでしょ! 返事くらいしなさいよぉ!?」
他の二人もそう息巻きながら、取り囲むように立ち塞がる。
「ご……ごめんなさい。お使い中だから……すぐに帰らないと。」
足をガタガタと震わせ、うろたえながら返事をする紅々愛。
「お使い中? いいじゃなーい、少しぐらいお話したって! 紅々愛ちゃん、学校でもアタシのこと…避けているみたいだし、なんか悲しいなぁ~っ。」
愛梨という名の少女は口ではそう言いながら、まるで「逃がさないよ」と言わんばかりに紅々愛の細い二の腕を掴む。
「それにしても紅々愛ちゃんって、ホント…腕細いよね? 身体も小さくて細いし、お家でご飯食べてるーぅ?」
「まさか、ダイエットでもしてんのぉ~っ?」
「小五のくせに!? ま…っさか~ぁ!! ヒャハハハハ!!」
「うちのママがさぁ、授業参観のとき紅々愛を見て、『あの子、本当に五年生? 三年生くらいの子が混ざっていると思った。』って言ってたわぁ!」
「三年生だって~ぇ、ウケる~~っ♪」
三人の少女はそう言い合いながら、ゲラゲラとはしゃぎ合う。
「それにさぁ~、この身体。いったいどうしたのーっ!?」
愛梨はそう言いながら、紅々愛のシャツを捲り上げた。
そこには青黒くなった痣が、身体中…アチコチに見受けられた。
「体中…傷だらけ! もしかして、紅々愛ちゃんって…危ないプレイでもしてるの?」
「危ないプレイだって!? 愛梨って、よく知ってるね! オ・ト・ナ~ぁ!!」
いい様に紅々愛を弄りまわす三人の少女。
「も…もう、いいですか? 早く帰らないといけないので……。」
紅々愛はそう言うと掴まれた腕を振り払い、足早にその場を立ち去ろうとする。
それを見た愛梨の表情が一瞬険しく引き攣ると、素早く後を追い、紅々愛が手にしているコンビニ袋を強引にもぎ取った。
そして中に入っている砂糖を引き出すと、
「ねぇ、お友達のアタシたちより、こっちの方が大事なの? それじゃ…アタシたち、傷つくなぁ~っ!!」
そう言って袋を引き裂き、その白い粉末を路面に振り撒き散らす。
その行動にはさすがに他の二人も眉を潜めたが、パワーバランスなのだろうか? あえて、口を開こうとはしなかった。
「紅々愛ちゃん。お友達は大切にしないと、天罰が下っちゃうよーっ!?」
愛梨はそう言うと、コンビニ袋を放り捨て、何事も無かったようにその場を後にした。もちろん他の二人も、足早にその後を追って行った。
「コンビニ行くだけで、何時間掛かっているの!? アンタがダラダラしているから、アタシがパパに怒られるじゃない!!」
帰宅早々、紅々愛に降り掛かる雷のような莉子の怒声。
「あの人は……パパじゃ……」
そう言いかけるが、それを言えば火に油を注ぐのは目に見えている。紅々愛は何も言い返さず、口を噤んだ。
さすがの莉子もそれ以上は何も言わずに、紅々愛の手からコンビニ袋を受け取ると、
「お釣りは……?」
と問い掛けた。
紅々愛はうつむいたまま、静かにお金を手渡す。
莉子は受け取った釣り銭を確認すると、
「お釣り、足りないじゃない? どうしたのよ?」
と問い直した。
「買った砂糖、途中で落として……破れちゃって。だから、もう一つ買い直したから……。」
更に深く項垂れる紅々愛。
莉子は「何言ってるの……」と問い返そうとしたが、沈んだ紅々愛の表情を見て、あえてそれ以上…口を出さなかった。
だが、
「なんだ? 紅々愛のガキは~っ、親の金をちょろまかしたのかぁ!?」
そう叫びながら、大輔がキッチンへ入って来た。
「コーヒーを催促に来れば、紅々愛がお釣りをちょろまかしたって声が聞こえたぞ! このクソガキは、親が苦労して稼いだ金をいっちょ前にくすねているのかぁ~っ!?」
大輔は歯を剥きだし、振り上げた右足を紅々愛の腹に抉る様に叩きつけた。
またしても宙に浮かぶ紅々愛の小さな身体。それでも、文句も言わず……泣きもせず、ひたすら耐え続ける。
「おい…莉子っ! 親の金を盗むようなガキには『躾け』が必要だ! ”今日も”飯は与えなくていいからな!!」
言うだけ言うと、大輔はコーヒーの入ったマグカップと砂糖を手に、キッチンから出て行った。
莉子はそんな目に遭った紅々愛から目を背け、
「パパの言う事を聞かないとお母さんも怒られるから、だから今夜はご飯は抜きよ。でも……」
そう言うと、冷蔵庫から一本のペットボトルを取り出し、
「何も食べさせずに死なれても困るから、とりあえず…コレ、飲んでおきなさい。」
と、そのペットボトルを手渡した。
「ありがとうございます。」
深々と莉子にお辞儀をすると、紅々愛は受け取った『スポーツドリンク』を口に含んだ。